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インタビュー記事

[危機に問う経済思想]橋本努さんに聞く 「市場」は自律的成長の場

『読売新聞』2009.04.20. 東京朝刊19

 


 

 行き過ぎたマネー経済の果てに世界同時不況に立ち至った今日、「市場」を見る目はかなり変わってしまった。民間にできることは民間にという市場原理に委ねる発想は、かつての勢いを失っている。そんな時だからこそ、自由主義の立場から市場社会を擁護したF・A・ハイエク(1899〜1992年)を問うてみたい。橋本努・北海道大准教授(41)(経済思想)に、現代における意義を語ってもらった。(植田滋)

 

 オーストリアに生まれ、英米で活躍したハイエクは、徹底して計画経済、社会主義に反対し、歴史的に生成される自生的な秩序としての市場を強く擁護したことで知られる。その思想は英サッチャーや米レーガン政権以来の、格差拡大を容認する新自由主義のバックボーンと言われることもある。であれば、市場原理主義が批判される今日、ハイエクを持ち出す意味は小さくなったのだろうか。

 橋本さんは、ハイエクの市場擁護には「合理的な人間が完全情報を持って競争すれば財が最適配分される、とする新古典派経済学とは、全く違う前提があった」と語る。「ハイエクには、人間は無知だという洞察がありました。完全情報はありえず、財の最適配分という発想そのものを疑った。むしろ、無知であるが故に、人類が知恵を蓄積させてきた伝統や慣習としての市場に価値があると考えました」

 いい社会を作るには、エリートが情報を集約して合理的な政策を行うべきだと考える人もいるだろう。しかし、「職人の勘やコツのように、政府に伝えられない知識が社会には分散して存在している。そうした人格から切り離せない知識を有効活用して活力ある社会を作ろうとすれば、新しい発見を生みだす発展原理としての市場が重視されてくるわけです」。

 もちろん、市場で競争する以上、努力が報われなかったり、生活が破綻(はたん)したりもする。「だが、だからといって、国家が努力した人としない人を一元的に評価していいのか。国家が個人の努力を評価するような所得の仕組みにすると、所得の低い人は人格的に劣った人と見なされてしまう」

 ただハイエクは、何でも市場に任せればいいと考えていたわけではなかった。「市場を安定させる基盤として、中間集団を重視していました」。真に個人の自由を生かすには、家族、企業、地方自治体などの個人と国家の中間にある集団が支えになると。とすれば、ハイエクの思想は、現在盛んに論じられている分権の流れを後押しすることになる。「例えば派遣切りなどの雇用問題なら、国家が介入するのではなく、企業自身がワークシェアを採用するなどして解決の道を探るべきだとハイエクは言ったでしょう」

 またハイエクは国家による市場への短絡的な介入は批判したものの、国家の役割を否定したわけではなかった。「ハイエクは、政府は“建築家”ではなく“庭師”であるべきだと言いました。“建築家”が完成品を設計するのに対し、“庭師”は土壌を作って種をまく。後はそれぞれの生命が自律的に成長し、潜在能力を開花させるのに任せる。社会を生命原理としてとらえていました」。現在に当てはめるなら、バラマキ財政は問題だが、一定のルールのもとで失業者に職業訓練する政策は、「種をまく」ことになるだけにハイエクも是認するはずだという。

 ところで、今は経済危機によって新自由主義が退潮し、ケインズ主義が復活したといわれる。しかし橋本さんは指摘する。「クリントン政権のIT(情報技術)政策にしろ、ブッシュ政権の軍需主導経済にしろ、近年の各国の政策は実はケインズ的だった。今はさらに大規模な財政出動をしている。財政赤字の大きさを考えると、やはり長期的には『生命原理』としての市場を見直していかざるを得ないでしょう」